守備の名手が愛する「久保田スラッガー」~日本の職人技が生んだグローブの真髄~
野球のグラウンドで、オレンジ色に輝くグローブを見かけたことはないだろうか。それは十中八九「久保田スラッガー」だ。1936年5月に大阪で創業した株式会社久保田運動具店が展開するこのブランドは、90年近い歴史の中で、数多くの守備の名手たちを支えてきた。
プロ野球選手から草野球愛好家まで、グローブにこだわる人々の間で語られる久保田スラッガー。その人気の秘密は、単なるブランド力ではなく、日本の職人技と革新的な技術、そして使う人への深い理解にある。
運動具店から始まった物語
久保田スラッガーの歴史は、他の大手メーカーとは少し異なる。ミズノやゼットのような総合スポーツメーカーではなく、野球関連用品のみを取り扱う専門店として歩んできた。その規模の小ささが、かえって製品への徹底したこだわりを生み出している。
大阪の地で始まった小さな運動具店は、当初グローブの修理や販売を行っていた。しかし、そこで培われた技術と野球用具への深い洞察が、やがてオリジナルグローブの製作へとつながっていく。大量生産が主流となった現代においても、久保田スラッガーはすべてのグローブが手作業で作られているという伝統を守り続けている。
職人が一つひとつ丁寧に仕上げるその姿勢は、プロ選手からアマチュア選手まで、幅広い層から支持される理由となっている。効率を追求すれば機械化できる部分も多いはずだが、あえて手作業にこだわるのは、グローブという道具が使う人の手と一体化するものだからこそ、機械では表現できない微妙なニュアンスが必要だと考えているからだ。
革命をもたらした「湯もみ型付け」
久保田スラッガーが野球界に与えた最大の貢献は、1968年に始めた「湯もみ型付け」だろう。それまで皮革製品に水分は厳禁とされてきた常識を覆し、グローブをお湯に浸けて柔らかくする技法を確立したのだ。
この技法を開発した職人・江頭重利氏は、平成24年度「現代の名工」、平成25年度黄綬褒章を受賞している。1950年代半ば、西鉄ライオンズの豊田泰光選手から「エラーをせんグラブを持ってきてくれ」と言われたことをきっかけに、グローブ作りへの探求が始まったという。
新品のグローブは革が硬く、実戦で使えるようになるまで長い時間がかかる。しかし湯もみ型付けを施すことで、購入してすぐに試合で使える柔らかさと、それでいて型崩れしない適度なハリを両立させることができる。今では多くのメーカーのグローブに施される湯もみ型付けだが、その原点は久保田スラッガーにある。この技術革新は、野球用具の歴史において特筆すべき功績と言えるだろう。
内野手から絶大な支持を得る理由
久保田スラッガーと言えば「内野手用」というイメージが強い。その理由は、革が非常に柔らかく、指一本一本の関節を動かすことができるくらい自由が効くという特性にある。
一般的なグローブは親指とそれ以外の指で操作するイメージだが、久保田スラッガーは指をバラバラに動かせる素手感覚に近い操作性を持つ。この自由度の高さが、セカンドやショートといった素早い球出しが求められるポジションで特に重宝されるのだ。
ゴロを捕球してから送球までのわずかな時間。その一瞬の差が、アウトかセーフかを分ける。だからこそ内野手は、グローブを自分の手の延長として感じられる道具を求める。久保田スラッガーは、まさにその要求に応える存在なのだ。
また、久保田スラッガーは「手のひら捕球」を提唱してきたパイオニアでもある。それまではウェブ下で捕球するのが常識だった野球界に、手のひらで捕る技術を広めた功績は大きい。手のひらで捕球することで、ボールの回転や勢いをより正確に感じ取ることができ、確実な捕球と素早い送球動作につながる。
プロ選手も認める品質
2026年の契約選手は、阪神タイガースの近本光司選手、中野拓夢選手、木浪聖也選手、横浜DeNAベイスターズの京田陽太選手、北海道日本ハムファイターズの中島卓也選手、福岡ソフトバンクホークスの周東佑京選手、オリックス・バファローズの若月健矢選手など、守備の名手が名を連ねる。彼らが久保田スラッガーを選ぶ理由は、単なる契約関係だけではない。
特に注目すべきは、俊足で知られる周東佑京選手が契約選手となっている点だ。盗塁王のタイトルを何度も獲得している周東選手にとって、グローブの操作性は守備範囲の広さに直結する。その周東選手が久保田スラッガーを選んでいることは、このグローブの軽快さと自由度の高さを物語っている。
さらに興味深いのは、契約選手以外にも多くのプロ選手が久保田スラッガーを使用している点だ。楽天の浅村栄斗選手、中日の高橋周平選手、石川昂弥選手などがその例である。他のメーカーと契約しながらも、シーズン中にラベルを剥がして久保田スラッガーのグローブを使う内野手がいるほど、その品質は信頼されている。
1987年、石毛宏典選手がショートからサードに転向する際、江頭氏が作ったグローブが石毛選手の守備を生き返らせ、5度のゴールデングラブ賞獲得に貢献したというエピソードも、久保田スラッガーの技術力を物語っている。プロの世界で結果を出し続けるためには、わずかな違いが大きな差となる。その厳しい世界で選ばれ続けていることこそが、久保田スラッガーの真価を証明している。
こだわりの特徴
革質へのこだわり
革が柔らかく薄いため、購入してからすぐに使い始めることができ、軽量で操作がしやすい。この柔らかさが、前述の指の自由度の高さにつながっている。ただし、薄い革は耐久性に注意が必要で、丁寧な手入れが求められる。オイルを定期的に塗り、使用後は型を保つための保管を心がけることで、長く愛用できる。
グレードレス戦略
他メーカーのようなグレード分けはなく、基本的には同じ高品質な革から作られる。初心者向けの格安モデルは作らず、中・上級者向けに特化している。これは「良いものを長く使ってほしい」という久保田スラッガーの哲学の表れだ。
豊富なモデル展開
グレードはないが、型番のバリエーションは極めて多い。内野オールラウンド用のL7Sや、鳥谷選手が使用していたT1など、細かなニーズに応える多様なラインナップを揃えている。ポジションごと、プレースタイルごとに最適なモデルが用意されており、自分に合った一品を見つける楽しみがある。
価格と入手方法
価格帯は決して安くはないが、ミズノプロやSSKプロブレインと比べると意外とお買い得という声もある。品質を考えれば、コストパフォーマンスは十分に高い。安価なグローブを短期間で買い替えるよりも、久保田スラッガーを丁寧に手入れしながら長く使う方が、結果的に経済的でもある。
ただし、全国の大手スポーツショップでは取り扱いがない場合がほとんどで、地域の野球専門店を訪れる必要がある。この限定的な流通も、ある種のブランド価値を高めている。野球専門店で実際に手に取り、店員と相談しながら選ぶ。そのプロセス自体が、久保田スラッガーを手に入れる楽しみの一部なのだ。
使い込む喜び
久保田スラッガーのグローブは、使い込むほどに手に馴染んでいく。手のひらに刻まれるシワのように、グローブにも細かなシワができ、自分だけの一品へと育っていく。その過程こそが、久保田スラッガーを使う最大の魅力かもしれない。
新品の時の美しいオレンジ色は、使い込むうちに深みのある飴色へと変化していく。革に染み込んだオイルと、無数の捕球で刻まれた型。それは、持ち主の野球人生そのものが刻み込まれた証だ。
大阪の小さな運動具店から始まった久保田スラッガー。日本の職人技と探求心が生み出したグローブは、今日も全国のグラウンドで、野球を愛する人々の手に輝いている。そして、これからも変わらぬ品質で、新しい世代の守備の名手たちを支えていくことだろう。